感動ポルノとは何か?人はなぜ感動を求めるのか?

Sponsored Link



Pocket

年に1度の24時間テレビが終わり、

今年もこうした話題が挙がってきています。↓

障害者を

感動のタネにしていいのか?

この議論が起こるのは例年通りの流れと言えますが、

今年はここに新たなワードが加わっているようですね。

 

それは

”感動ポルノ”

という言葉。

 

今回はこの言葉の意味とともに、

障害者のことや、

感動を求める人間の心理

について考えていきます。

(どういうところへ着地するのか、難しそうです…。)

Sponsored Link

感動ポルノって何?

ポルノとは、

ギリシア語の「ポルネイア(淫行)」を語源に持ち、

主に

「性的興奮を引き起こすことを目的とした(写真や文章などによる) エロチックな行為の描写」

という意味で使われてきた言葉です。

 

しかし最近ではその使われ方に少し変化が出てきたようで、

たとえば、

食べ物(フード)の写真をTwitterなどでアップし、

むやみに人の食欲を刺激することを

フードポルノ

と言ったりします。

 

また、愛国心を引き出そうとする意図のある本やテレビ番組などを

愛国ポルノ

と言ったりするようです。

 

ですから最近は、

”性的興奮”に限らず、

「人の心に刺激を与え、何らかの感情を引き起こさせること」



「ポルノ」

と言っているようですね。

 

つまり「感動ポルノ」

と言えば、

「人の心にわざと刺激を与えて、感動させようとする行為」

と言っていいでしょう。

(ちなみに日本のロックバンド「ポルノグラフィティ」は、本人たちによれば「エッチな落書き」という意味だそうです。)

images-4

感動ポルノは何が問題?

「感動ポルノ」という言葉の発端は

アメリカのテレビ番組で、

そこでは、

障害を持ったある著名人が

健常者の感動を呼ぶために障害者を取り上げる風潮

を批判しました。

ステラ・ヤングさんという女性の方です。



この方の論調はざっと以下の通り。↓

 

健常者が障害者を題材に使い、感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことは、

つまり、

「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」

と思わせるためのものでしょう?

それは、

健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしているとは言えないでしょうか?

私たちの実際の困難に、身体の障害は関係ありません。それよりも、私たちの生きる社会のほうがより強く「障害」になっています。

 

…うーん、

なかなか手厳しい言葉ですが、うなずける部分も多いですね。

また、この発言が健常者側でなく、障害を持つ側の彼女から出た発言であるということも、なかなか心をえぐるものがあります。

 

私自身も足の大きな手術をしたことがあって、

その時は入院もし、車椅子生活もしたものですが、

その時のことを思い出しても、

自分がみじめだという思いは少しもなかったですね。

「自分にとってはそれが普通だった」から。

スポンサードリンク


健常者と障害者の間にある溝

たとえば、

人間が、空を飛んでいる鳥を見て、

「自分は飛べないのに、鳥は空を飛べていいなぁ」

と思って、みじめな気持ちになることはありません。

 

ですが

 

動物園へ行ってコアラを見て、

「いつもユーカリだけ食べてかわいそうだなぁ。自分は人間に生まれて、いろんなものが食べられるから、幸せだなあ」

と思うことはあるのではないでしょうか?

 

…でもこれ、

コアラにとっちゃ、単なる余計なお世話ですよね。

 

人って、

自分よりも”力”の小さいもの劣っているものに目を向けて、

自分の”心の潤い”を求めることってあると思います。

 

ちょっと言い過ぎかもしれませんが、

大人が子供をかわいがったりするのも、

動かない花を愛(め)でたりするのも、

もしかしたら、これに近い感情があるのかも知れません。

健常者と障害者のことに話を戻すと、

同じ人間であれば、

やっぱり

”下に見られる”のは、たまったもんじゃありませんね。

障害を持っていると不自由が多い分、できる人のお世話になる部分はあるかと思いますが、

だからと言って下に見られるのは嫌ですね、絶対。

 

こうして考えると、

健常者のやさしさが時に押し付けになったり、自己満足になったり、傲慢になったりするのは、どうしても避けられないと思います。

「そもそもそれは本当にやさしさなの?」「優越感を感じたいだけなんじゃないの?」

という勘ぐりは、どうしても避けられませんからね…。

images-5

「善意」とは何か?

電車内でお年寄りに席を譲ること、

後進国で井戸を掘ること、

子供の世話をすること、

街の空き缶を拾うこと…

これらすべての行為に

「善意」「偽善」が潜んでいます。

 

言い換えれば

「当たり前なやさしさ」「狙った自己満足」

ともなりましょうか?

 

でも、

「いや、その行為は当たり前で、そっちは自己満足だろ?」

なんて線引きはかんたんに引けるものではありません。

 

上に紹介したステラ・ヤングさんの意見は貴重だと思いますし、世を生きるすべての人が意識していいことかも知れません。

しかし、

「障害者は健常者に”感動ポルノ”として消費される」

という見方はあまりにも短絡的だと思います。

images-7
スポンサードリンク


人は”泣くこと”を求めているけども…

感動とは、

物に深く感じて、心を動かすこと

です。

 

人は 褒められたり、喜んだり、感動すると

脳の中で

”ドーパミン”という快楽物質が分泌されます。

 

また、

感情によって涙が流れると、脳から分泌されるストレス物質も、涙と一緒に体外に流れ出ます。

 

さらには涙には、ストレスによって生じる苦痛をやわらげる脳内モルヒネ「エンドルフィン」に似た物質も含まれています。

感動だけでなく、ただ悲しいときや悔しいときに泣いても、ストレス物質を排出し、苦痛を緩和することができます。

 

つまりは、

人は本能的に”泣くこと”をどこかで求めているのです。

かといって、悲しことや悔しいことが起こるのを期待するのはおかしいでしょう。

 

だから、

感動で心が動き、その先にある涙

を求めてしまうのです。

 

しかし、

いかにもお涙頂戴といった作りには抵抗感を示してします。

それはちょうど、

心が動く前に脳が、

「これは善?偽善?」

と迷ってストップをかけている状態と言えるでしょう。

 

線引きの非ッ常〜に難しい、この「善・偽善」の判断。

でも、ここに世の中の奥深さがあるのです。

ですから、ストップをかける思考も、人間にとって非常に大切なものと言えるでしょう。

 

…ここで、

私はどんな人間かというと、

24時間テレビはわりと抵抗なく観れますし、

いい番組だと思っています。

 

ですが、

戦争モノの映画が嫌いです。

戦争モノでは感動したくないな、といつも思っています。

 

人の歴史の中で否定しなきゃいけないものを産業にしているのも嫌ですし、

戦争という特殊な状況で安易に感動を生み出そうとするやり方も嫌いなんです。

 

でも、そこで表現されるドラマを観て、心の中に

「もっと人にやさしくしよう」

「限られた人生をもっと精一杯生きねば」

という気持ちが芽生えたとすれば、そんなに悪いものではないのかも知れません。

 

…こうして見ると、24時間テレビだってそうですね。

「善・偽善」の線引きは難しい。

でも、この資本主義社会の中で

エンターテイメントに昇華しなければ、

人に届けることすら叶いません。

 

結局は、受け止める人の心次第。

作る人がいるならば、作ることそのものは否定できません。

障害者をメインにすえた「24時間テレビ」という番組に、もし出演してくれる人が1人もいなくなるという時代がくれば、それはそれで1つの答えでしょう。

でも、そんな時代は来ないような気がします。

戦争映画がなくなる日も、来ないような気がします。

 

障害があろうがなかろうが、

人は、「人の頑張っている姿」を見ると感動します。

100%の支持、

100%の「善」というのは不可能です。

 

私たちがすべきは、

人の中にある「善・偽善」の割合を測ることよりも、

「自分がどう生きるか?」だと思います。

お涙頂戴を批判する人は、自分なりの「善」を世の中に展開していけば良いのです。

障害者の人とどう接すべきか、自分なりの答えを見つけていけばよいのです。(目を向けないっていうのはナシですよ?)

やみくもに批判するのは、

やっぱり違うような気がしますね…。

それこそ、

「”感動ポルノ”批判ポルノ」

になっちゃいますよ、それは。

(ややこしいですけど。)

世界的に大ヒットしたお涙頂戴の決定版「おしん」

↑世界的に大ヒットしたお涙頂戴の決定版「おしん」


【関連記事】

そもそも感動ポルノはなぜ悪い?理想的な感動の作り方とは?


 

やらない善よりやる偽善の意味。24時間テレビって偽善?

 

自己嫌悪の意味とは?それは克服するのではなく従うもの

 

悪口を言う人はなぜ嫌われる?タレントの毒舌と何が違う?

Pocket

あわせて読みたい



Sponsored Link



5 件のコメント

  • 丑三つ時の名無しさん より:

    僕も中学生のときふとこの記事にあったような事を考える時期がありました。
    それから24時間テレビの障害者を取り扱う番組を見る気になれずに大人になってしまいました…。
    僕の父も脳の手術で一時、話のできない状態にありましたが、悲しんでるのは周りの人だけで本人は別になんとも思ってなかったようでヘラヘラと笑っていました。

    不自由な事と不幸なことは決してイコールではない 哀れに思われるいわれは無いよ

    これは少年漫画「鋼の錬金術師」という作品で語られたセリフですがまさにこのとおりなんじゃないかな…。と思いました。

    • mkthy(まくしー) より:

      ご丁寧なコメントありがとうございます。私は24時間テレビを絶賛肯定しているわけではなく、かといって批判するつもりも全くないんですね。ですが、どちらかというと…肯定派ですね。おっしゃるように、実際、安易に批判する人は”自己”に目覚めたばかりの人のような感じもします。三浦綾子の「塩狩峠」という小説は、中高生向けの推薦図書ですが、あれにちょうど「体の不自由な人たちは、私たちが、普段のありがたみを知るためにいるのかも知れない」なんていう箇所(うろ覚えですが)がありますね。この小説にしても感動ポルノという言葉にしても、「善・偽善」についてや、人のあるべき姿について考えるのは、あらゆる世代の人にとって、すごくいいことだと思います。日テレは、ある意味、すごく勇気がありますよ。でも、忘れちゃいけないのは、人は、人の頑張る姿に感動するということ。「不幸」や「障害」そのものに感動するのではないですよね。「鋼の錬金術師」は機会があれば読んでみようと思います。では。

  • アマゾン,レビュー住人 山國新山 より:

    偶々「朝鮮」関係で貴兄の記事に当たり役立たせて頂きました、有り難うございます。
    語り口筆致の妙に誘われ、幾つかの記事を堪能しました。
    当記事では『戦争モノの映画が嫌いです。』に共感しました。

    私なりに戦争に関連して申せば、モハメドアリが ”カシアスクレイ” 時代に語った言葉と、
    宮沢賢治が「農民藝術概論-序論」で記した言葉がいつも思い出されます。
    「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」この”全体の幸福”の
    第一歩は、クレイが良心的兵役を拒否した「見た事も行った事もない土地でなんの恨みも無い未知の人間を殺したく無い」(主意) という簡明な言葉の実践だと銘じています。

    賢治の論旨の背景には特定の宗教思想があったかもしれませんが、その儘読みたい所です。

    個人的な殺人は過失や故殺は避け難いとしても (計画殺人を除く) 集団的組織的国家的殺人
    には、命を賭して信念を全うする覚悟を機につけ思い起こしています。

    示唆と平衡感覚に富んだ良い記事を有り難うございました。ご免ください。

    • mkthy(まくしー) より:

      ご丁寧なコメントありがとうございます。

      戦争モノの映画は基本的には嫌いなのですが、
      映画「この世界の片隅に」を観ると、
      新しい戦争表現の地平が拓けたように感じましたね。

      私はおそらく「相対的に幸せを実感するのが嫌い」なのだと思います。

      ですから本当は、

      童話や絵本のように、
      暴力が描かれない純粋な表現で
      感動を呼び起こす…
      というのが一番上級な感動なのかも知れないですね…。

      コメントを拝見し、
      そんなことを思いました。

      宮沢賢治は私も大好きです。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    ABOUTこの記事をかいた人

    演劇と文筆活動をしながら、画家の助手、占い師の助手、著名人のゴーストライターなど、数々の”珍職”を経験。現在は、童話作家、フリーライターの顔を持ちながら「ストーリーカウンセラー」としても活動中。こちらのブログでは「人生のやっかいごと」をなるべくシンプルに解決する方法・考え方を中心に、個人的に興味のあることを”総合的に”紹介しています。