
名作昔話を掘り下げる、第8回目は、
スウェーデンの昔話『くぎスープ』
をお送りします。
これは一応、ジャンルとしては笑い話なんですが、
この軽妙洒脱な感じは、
ちょっと日本の昔話にはないですね……。
そんな“お国柄”も感じつつ、深掘りしていきましょう。
今回ご紹介する話は…
↑この中に収録されています。このストーリーのモチーフ(発想の原点)
「食べられないもの」をいくら煮たって、ダシすら出ない。
でも、
味って目に見えないし、食べられないものをグツグツ煮て、
「美味しいスープができましたよ」
なんて言ったら、騙される人がいるかも知れないよね。
こんな思いつき(モチーフ)に、どうやって“肉付け”がなされ、
物語に仕立てられているかに注目し、以下の要素を見ていきましょう。
物語の『天・地・人』
天(時代・世界設定)
スウェーデンの昔
(あくまでも「昔話」なのでファンタジー要素は強い世界観です。)
(あくまでも「昔話」なのでファンタジー要素は強い世界観です。)
地(物語のスタート地点)
人里離れた森
人(主人公および登場人物)
やどなし(今で言うホームレスのような男)と、おばあさん
あらすじ(物語のおおまかな設計図)
人里離れた森の中を、1人の宿なしが歩いていた。
一軒家を見つけると、おばあさんが出てきた。
しかしおかみさんはどうやら、やどなしを泊めたくないようだ。
それでも何とか「床になら寝てもいい」と許可をもらったやどなしだったが、どうしても食べ物が食べたい。
やどなしは、「この釘でスープを作ります」とハッタリをかます。
そして、「“具”があればもっと美味しくなる」と言って、
おばあさんに食材を持って来させ、
結局、2人でごうせいな夕食を食べることとなった。
それでもおばあさんは
「いいことを教えてくれて、ありがとう」と言って、
やどなしに感謝し、最後まで、やどなしのインチキに気付かなかった……。
起承転結は?
起
森の中の一軒家の前で、やどなしとおばあさんの出会い。
2人の思惑は噛み合わない。
やどなし:「泊めて欲しい」、「食事をごちそうして欲しい」
おばあさん:「泊めたくない。食事も食べさせたくない」
……でもやどなしは何とか、おばあさんをなだめすかし、
家に入り、“床”に寝る許可を得ることができた。
承❶
やどなしは、やっぱり食事をあきらめきれない。
でも、おばあさんはご馳走する気はないようだ。
そこでやどなしは、この家に食料があることを見抜いていて、ある作戦を実行する。
やどなし:「この釘でスープを作ってみせますよ」
「でも、ちょっと味が薄いようだ。オートミールさえあればなぁ……」
おばあさんは、“釘”でスープを作る方法を知れて嬉しい。
喜んでオートミールを持ってくる。
承❷
やどなし:「まだここに、塩漬け肉とジャガイモがあれば……」
おばあさん、塩漬け肉とジャガイモを持ってくる。
やどなし:「まだここに、大麦とミルクがあれば……」
おばあさん、大麦とミルクを持ってくる。
やどなし:「さあ、できた!」
承❸
やどなし:「まだここに、お酒とサンドイッチがあれば……」
おかみさんはもう、あらゆる食材をテーブルに並べ、
宴会状態となる。
転
宴会が終わり、やどなしが床に寝ようとすると、
おばあさんはそれを制止し、ベッドで寝かせる。
転
宴会が終わり、やどなしが床に寝ようとすると、
おばあさんはそれを制止し、ベッドで寝かせる。
結
翌朝、やどなしが帰ろうとすると、
おばあさんは、やどなしに金貨を一枚あげる。
「ありがとう、これからは釘でスープを作れるから、楽に暮らせるよ」
このストーリーのポイントは?
一応、上のように起承転結に分けてみましたが、このような分け方をしないパターンもあると思います。
要は、
どこからどこまで「起」で「承」で、「転」で、という分け方に、
厳密さはいらないんです。
大事なのは、
「起」で、物語がレールに乗って動き出したら、
そこから、エピソードが転がり続けること。
そして最後、ちゃんと“目的地”に着くこと。
この物語で言うと、最終的に、
やどなしが、食事ときちんとした寝床にありつけた……
という、この“事実”にたどり着けばいいわけです。

一般的には、「起承転結」の「転」で、
それまで仕掛けていた仕掛けが炸裂する話が多いですが、
この話はちょっと変わっていて、
仕掛けは最初から暴露されています。
あとは、
どこでこのおばあさんがこのインチキに気付くか?
というところなんですが、
でも、おばあさんは最後まで気付かないし、
読者(聞き手)に対しても、
「釘でスープなんてできるわけないのにね?」と、同意を求めません。
この、投げっぱなし感、スゴイです。

まるで、話し手と聞き手が、
“共犯者”になってしまうような、
…そんな連帯感を持たされてしまう、不思議な作りの物語です。
このストーリーの伝えるメッセージは?
この話も、前回の『かしこすぎた大臣』のように、特に、メッセージ性は感じられません。
ただ、おばあさんに対して、
「みんなでイタズラしちゃったね」
と、共犯意識を持ってしまうような感じです。
(ここで言う「みんな」とは、
やどなしと、語り手と、聞き手の「みんな」です。)

……と、ここで話の矛先を変えてしまいますが、
要するにこの話、
漫才で言うところの、「ボケ」と「ツッコミ」、
その「ツッコミ」が完全に不在なんですね。
日本のお笑いでは、ツッコミがないことは考えられませんし、
このような形態の「昔話」もほとんどありません。
(日本の多くの昔話のスタイルだと、
このやどなしのハッタリは、最後にはバレそうです。
バレても、相手に許されるかも知れませんが、
いくら何でもここまで完全犯罪のパターンはないでしょう。)

ここで、大きな大きな、新事実。
実は、世界には、
日本のような「ツッコミ」そのものがないようです。
ただ、ツッコミがあれば、笑いどころが分かりやすいですし、
そのぶん、みんなで一緒に(連帯感を持って)笑うことができますよね。
しかし一方では、この物語の笑いのように、
ツッコミなしで、このような奇妙な連帯感を得ることもできるんですね。
(もちろんこれを日本人が読んでも笑えます。)

「笑い」って、ツッコミがあってもいいしなくてもいい……。
そう考えると、日本人流の「ツッコミ」は、
「なんとか笑わせたい!」
という気持ちのほとばしりのような気がしますね。
だから、大阪人はツッコミがうまかったりするんです。

……というわけで、
最後、話がちょっと脱線してしまいましたが、
かなり変則的な作りの、
とても面白い話『くぎスープ』をご紹介しました。