SC所論❸/3|自分を好きになることがゴール

第三者視点とは結局のところ何なのか?

人には、「無意識の自分」といったものがあります。

(ある人は「ハイアーセルフ」と言ったり、「潜在意識」と言ったり、「守護霊」と言ったりしますが、ここではあまりそこへ深く踏み込みません。)

本サイトで何度も登場する言葉、「第三者視点」とは、つまるところ、無意識の自分が持つ意思をきちんと汲み取ることのできる視座のことです。

※視座=物事を認識する立場

例を挙げて説明してみましょう。

たとえば、他人の赤ちゃんを泣き止ませるのに、こんな方法があるのを知っていますか?

それは、ただじっと見つめるだけ。

そうすると、親に何らかの行動を促すための意思表示として泣いていた赤ちゃんは、フッと恥ずかしくなって泣き止みます。

赤ちゃんは「自分」「親」だけの関係性の中に、「他者(第三者)」を意識し、自分が客観的に見えたから泣くのをやめたのです。

大人でも同じです。

何ならいっそ、客観的の“スケール”を特大にしてみましょう。

たとえば、誰かと言い争いをしている時に、「この銀河系の、地球という惑星の、日本という国の、ある地域片隅で、一生懸命言い争いをしている自分たち……」と考えてみるのです。

きっと、「何てつまらないことでケンカしてるんだろう?」って思えてくるでしょう。

自分自身を、できる限り客観的に見れば、自然なあり方が見えてきます。

(もちろんこの反対は、“不自然なあり方”です。)

人間がどのように進化しようと、自然の一部であることには変わりはありません。

そうです、人間は無意識の中に自然を内包しているので、自分自身の自然なあり方(=“本当の答え”)を元からちゃんと知っているのです。

そして、「第三者視点」とは、この「“本当の答え”に辿り着くための唯一の道」です。

 

個人的に、宗教には一切関心がありませんが、宗教とは“大いなる他者”を意識し、自分を顧みるためにあるものだと思っています。“世間”ではないので、注意が必要です。“世間”とは往々にして、不特定多数を指しているようでありながら、実際には特定の身近な誰かを指しているものです。

自分で決めた選択ならすべて正解

「決断できる大人になれ」

とは、野球界で数々の記録を打ち立ててきた、イチロー選手の言葉。

イチローがこうして訴えたように、人生はまさに決断の連続です。

ですが当然、決断には「責任」が伴います

この「責任」とは、つまり、“うまくいかなかった場合の責任”です。

自分で決断し、うまくいかなかった時には、誰のせいにもできません。

自分が悪かった、それで終わりです。

すると、こう考える人が出てきます。

「それならいっそのこと、人に決めてもらいたい。そしたら、うまくいかなかった時は、その人のせいにできるから……」

これこそまさに、他人からのアドバイスにすがりたがる人の心理構造です。

そしてこれは明らかに「無意識の自分=自然なあり方」に反しています。

人の魂は、自分の存在や、存在価値をけっして否定しません。

ここで、ハッキリと述べておきます。

決断は、重要です。

でも、その決断が正しいか間違っているかなんて、関係ありません。

 “自分自身”が決めたのであれば、それはどんな決断であれ「正解」です。

人は納得のために生きている

たとえば人生相談には 、

Aの道とBの道、どちらへ行くのがいいですか?」

といった相談がよくあります。

こんな時は、こんな風に考えてみましょう。

A」の道には困難が伴うが、自分が鍛えられ成長する……

B」の道はラクだが、怠けてしまい自分が成長することはない……

これならば果たして、どちらが正解だと言えるでしょう?

どちらとも言えないと思います。

本当の意味で、自分が迷いに迷ったなら、その場合は、どちらを選んでもそれが「正解」です。

ただし、条件があります。

これは、“自分自身で”決断した場合においてのみ

そうです、「正解」とは自分で作るものなのです。

世の中は、諸行無常。

すべてのものは、刻々と変化し続けますし、人の気持ちは移ろうものです。

この世に確かなものは何もないなら、人は何のために生きるのか?

それは、自分の「納得」のためです。

それ以外にはないのです。

「これでいいんだ」と思える自己肯定感こそがカギ

人は納得のために生きている……このことは、人の生き死にに関して考えると、いくらか分かりやすいと思います。

たとえば、人が亡くなった時、「その人のために葬式をやらなくては……」という言い方をします。

しかしそこにはもう、故人の意思はありませんよね?

亡くなった当人は、もうこの世にはいないのですから。

遺言があったにしてもそれを実行するのは、生きている人。

「あの人の遺言通りにしたいから……」という思いは、結局、自分自身へ向いていて、自分の気持ちを納得させるためにあるのです。

このように、自分の意見や思っていることを肯定し、「これでいいんだ」と納得できている状態「自己肯定」と言います。

自分で決めた選択に納得するためには、「自己肯定感」が何より大切です。

この自己肯定感を高めるためにも、人生のストーリー化が有効なのです。

自分を好きになることがゴール!

人は弱いからこそ、人の痛みを知り、人の痛みを知るからこそ、人にやさしくできます。

弱いことは、それ自体が“わるいこと”ではありません。

占いも宗教も、時に、自分の見識だけではおよばない考え方やヒントを与えてくれるものです。

しかし、そこで得られた考え方を、真の意味で自分に落とし込み、完全に自分のものとしない限り、永遠に不安からは逃れられません。

私が提唱する人生のストーリー化、およびストーリーカウンセリングは、現在までどんな人生の歩みであったとしても、それらを“受け入れる”ことで納得し、「自己肯定感」を高めるためのものです。

それによって、この先「どうしたいか?」「どうしたらいいのか?」という“本当の答え”に近づくためのヒントを得ることができます。

それはズバリ、

自分を好きになって、他人に振り回されない真の自分の人生を生きるためのヒント

と言ってもいいでしょう。

本記事を含む【SC所論❶〜❸】において私が伝えたかったことは、以下のようにシンプルなことです。

 

あなたが探している“本当の答え”は、遠くにあるのではありません。
あなたは、はじめからそれを知っているのです。
自分はどう進み、どう生きていくべきかということを。
ただ、大人になると同時に、いろんなものを纏(まと)い過ぎてしまい、それが見えなくなってしまったというだけのことです。
だからそれをあなたは、ただ思い出せばいいのです。
“宝物”は、すでにあなたの中にあります。

 

……たとえ、今はそれが“一本のわら”にしか見えなくても、あなたが勇気を持って前に進み続けさえすれば、きっとそれは“光り輝く宝物”へと変わることでしょう。

ストーリーカウンセリングは、それをほんの少しだけお手伝いすることができます。

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